■様々な宗派について |
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1. 【真言宗について】 |
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■ 宗祖 |
弘法大師空海上人 |
■ ご本尊 |
大日如来 |
■ 教え |
真言宗は真言密教とも言い、「即身成仏」を教えの根幹にしています。
これは密教の修行の実践により、誰でもただちに仏になることができるという教えです。密教の修行とは、身体の修行である身密、言葉の修行である口密、心の修行である意密で、あわせて身口意の三密修行と呼ばれています。 |
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◆ 本 山(抜粋) |
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○ 高野山真言宗 |
: 高野山金剛峰寺 |
(和歌山県伊都郡高野町高野山) |
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○ 醍醐派 |
: 深雪山醍醐寺 |
(京都市伏見区醍醐東大路町) |
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○ 東寺真言宗 |
: 教王護国寺 |
(京都市南区九条町) |
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○ 泉涌寺派 |
: 東山泉涌寺 |
(京都市東山区泉涌寺山内町) |
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○ 御室派 |
: 大内山仁和寺 |
(京都市右京区御室大内) |
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○ 大覚寺派 |
: 嵯峨山大覚寺 |
(京都市右京区嵯峨大沢町) |
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○ 善通寺派 |
: 五岳山善通寺 |
(香川県善通寺市善通寺町) |
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○ 智山派 |
: 仏頂山智積院 |
(京都市東山区東山七条下ル東瓦町) |
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○ 豊山派 |
: 豊山長谷寺 |
(奈良県桜井市初瀬) |
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○ 新義真言宗 |
: 大伝法院根来寺 |
(和歌山県那賀郡岩出町) |
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◆ 歴 史 |
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7世紀中頃のインドで、当時衰退の傾向にあった仏教の復興運動がおきました。
この運動によって密教が盛んになり、西インドで『大日経』が、南インドで『金剛経』が成立します。『大日経』は善無畏三蔵によって陸路で、『金剛経』は金剛智三蔵によって海路で中国に伝えられました。中国に伝わった密教は、始めこの2派に分かれていましたが、空海の師匠である恵果和尚によって統一されます。
弘法大師空海は宝亀5年(774)讃岐国に生まれ、15歳で都にのぼり、仏教をはじめさまざまな学問を学び、各地の山野で修行しました。そして密教の実践を学ぶため中国へ留学、恵果に入門します。恵果は空海に会うなり「私はあなたが来るのを待っていました。すぐに密教の奥義を伝えましょう」と言ったそうです。つまり恵果は1000人を超える弟子の中から正統な密教の継承者として空海を選んだのです。
空海は帰国後、全国行脚を経て真言宗を開きます。
真言宗は興教大師覚鑁が高野山座主の時に古義と新義に分かれ、その後さらに分化し多くの派が生まれてゆきます。 |
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◆ お仏壇の飾り方 |
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分派が多く、また地域による違いもあり、飾りかたはさまざまですが一例をあげます。高野山真言宗では中央にご本尊である大日如来を、向かって右側に弘法大師、左に不動明王をまつります。
豊山派・智山派では左に興教大師覚鑁、あるいはそのかわりに不動明王か、観世音菩薩や地蔵菩薩などをまつることが多いようです。 |
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2. 【臨済宗について】 |
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■ 宗祖 |
明庵栄西 |
■ ご本尊 |
釈迦牟尼仏 |
■ 教え |
臨済宗の教えは、人間が生まれながらに、だれもがそなえている尊厳で純粋な人間性をみずから悟ることによって、仏と寸分も違わぬ人間の尊さを把握するところにあります。
もちろん禅宗ですから、坐禅を最も重視します。臨済宗の禅は、「看話禅」(かんなぜん)と呼ばれ、師匠が「公案」という問題を出します。弟子はこれを頭だけで理論的に考えるのではなく、身体全体で、理論を越えたところに答えを見いだします。そして、この結果を検証するのが参禅です。師匠と二人きりで対面した弟子が、見解を提示し、これを師匠が確かめるのです。 |
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◆ 本 山(抜粋) |
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○ 妙心寺派 |
: 正法山妙心寺 |
(京都市右京区花園妙心寺町) |
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○ 建仁寺派 |
: 東山建仁寺 |
(京都市東山区大和大路通り) |
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○ 東福寺派 |
: 慧日山東福寺 |
(京都市東山区本町) |
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○ 南禅寺派 |
: 瑞龍山南禅寺 |
(京都市左京区南禅寺福地町) |
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○ 天龍寺派 |
: 霊亀山天龍寺 |
(京都市右京区嵯峨天竜寺町) |
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○ 相国寺派 |
: 万年山相国寺 |
(京都市上京区今出川通烏丸東入) |
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○ 大徳寺派 |
: 龍宝山大徳寺 |
(京都市北区紫野大徳寺町) |
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○ 建長寺派 |
: 巨福山建長寺 |
(神奈川県鎌倉市山ノ内) |
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○ 円覚寺派 |
: 瑞鹿山円覚寺 |
(神奈川県鎌倉市山ノ内) |
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○ 仏通寺派 |
: 御許山仏通寺 |
(広島県三原市高坂町) |
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○ 永源寺派 |
: 瑞石山永源寺 |
(滋賀県神崎郡永源寺町) |
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○ 国泰寺派 |
: 摩頂山国泰寺 |
(富山県高岡市太田) |
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○ 方広寺派 |
: 深奥山方広寺 |
(静岡県引佐郡引佐町) |
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○ 向嶽寺派 |
: 塩山向嶽寺 |
(山梨県塩山市上於曽) |
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◆ 歴 史 |
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弟子が師匠から法を受け継ぐことを、特に禅宗では重視します。それは、仏教開祖のお釈迦さまの悟りを引き継いでいる、ということを大切にするからなのです。禅宗はお釈迦さまから二十八代目にあたる菩提達磨によって中国へ伝えられました。
そして、達磨から六代目の六祖慧能、さらに慧能から五代目の臨済義玄に法が引き継がれ、中国に臨済宗が開かれました。日本に臨済宗をもたらした明庵栄西や、円爾弁円は中国へ渡ってこの教えの流れを引き継いだのです。さらに、中国から帰化した蘭渓道隆や無学祖元なども日本へ臨済宗を伝えました。
室町時代には武家の帰依を受けた夢窓疎石らによって臨済宗は発展を遂げ、建築や水墨画、文学などの禅文化が花開きます。また、大応国師、大燈国師、関山慧玄によって「応燈関の法灯」と呼ばれる系譜も形成されます。そして、江戸時代中期に白隠慧鶴によって現在に直接つながる臨済宗の教義が完成したのです。 |
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◆ お仏壇の飾り方 |
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臨済宗には多くの分派があり、飾りかたに相違があるので詳しくは菩提寺のご住職に相談してください。
仏壇の中央にはご本尊として釈迦牟尼仏をまつることが多いようですが、両脇は各派で違いがあります。
例えば妙心寺派の場合は向かって右に開山の無相大師の絵像を、左には花園法皇の絵像を飾ることが多いようです。 |
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3. 【曹洞宗について】 |
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■ 宗祖 |
太祖 常済大師瑩山禅師
高祖 承陽大師道元禅師 |
■ ご本尊 |
南無釈迦牟尼仏 |
■ 教え |
曹洞宗の修行の基本は坐禅です。修行は坐禅だけには限りませんが、ただひたすらに坐禅を行うこと(只管打坐(しかんたさい))を最も重要に考えます。
そして、坐禅の心とすがたで、日常生活を生きていく(即心是仏(そくしんぜぶつ))ことを説きます。 坐禅の力は、必ず個人生活・社会生活に現れてきます。つまり坐禅と日常生活は一つ(禅戒一如(ぜんかいいちにょ))なのです。ですから日常生活を大切にして、今、ここで生きているかけがえのないいのちを事実のままに生きることこそが、修行であり、この自己の修行がそのまま仏の行であると教えています。 |
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◆ 本 山 |
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○ 吉祥山永平寺 |
(福井県吉田郡永平寺町志比) |
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○ 諸嶽山総持寺 |
(横浜市鶴見区鶴見) |
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◆ 歴 史 |
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8世紀初め頃の中国の禅僧である洞山良价の「洞」と、その弟子である曹山本寂の「曹」をとって「曹洞」としたのが曹洞宗の名の由来だと言われています。我が国に曹洞宗を開いた道元は、正治2年(1200)内大臣久我通親の子として京に生まれました。幼くして両親を失った道元は、13歳の時に比叡山に登り、天台教学を学びます。しかし、天台宗に疑問を抱き、18歳で建仁寺に栄西を訪ねます。そして貞応2年(1223)に中国に渡り、如浄を師として曹洞禅を学びました。
身心脱落の境地を得て帰国した道元は、宇治に興聖寺を開きます。
その後、越前に移り永平寺を建て、自らの理想とする正伝の仏法の提唱と弟子の養成につとめました。 道元から四代目にあたる瑩山は多くの優れた弟子を養成しながら大衆教化にもつとめ、現在、日本最大の寺院数を誇る曹洞宗の素地をつくりました。曹洞宗では道元を宗派の父、瑩山を母にたとえ、両祖と仰いでいます。 |
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◆ お仏壇の飾り方 |
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お仏壇の中央に、ご本尊の釈迦牟尼仏をまつり、向かって右に高祖承陽大師道元禅師を、左に太祖常済大師瑩山禅師を配して「一仏両祖」の三尊仏形式としてまつります(一仏両祖を一本とした、三尊仏の掛け軸もあります)。また、右に達磨大師を、左に道元禅師と瑩山禅師をまつる場合もあるようです。 |
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4. 【日蓮宗について】 |
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■ 宗祖 |
日蓮大聖人 |
■ ご本尊 |
大曼荼羅 |
■ 教え |
日蓮宗ではお釈迦さまの説かれた教えの中でも『法華経』(ほけきょう)こそが、世の中を救う絶対最高の教えであるとします。その法華経を説かれた、実際に歴史上に存在されたお釈迦さまは「久遠実成(くおんじつじょう)の本仏」が自身を表した姿です。
久遠実成の本仏とは、永遠の昔に悟りを開いた仏さまという意味で、法華経も、本仏が経典として、実態を示したものなのです。法華経を日本に広宣流布した日蓮聖人の教説を通して法華経を理解し、実践していくのが日蓮宗です。
法華経は本仏の声そのものであり、法華経の功徳すべてが「南無妙法蓮華経」の七文字にこめられていると日蓮聖人は考えました。そこで、「法華経の内容をすべて信じ帰依する」という意味の「南無妙法蓮華経」を唱えることを何よりも重要な修行としています。 |
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◆ 本 山 |
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◆ 歴 史 |
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日蓮は貞応元年(1222)安房国(千葉県)に生まれ、12歳で天台宗清澄寺に入り、16歳で得度します。21歳の時に比叡山へのぼると膨大な書物を読破しながら、教えを求めて園城寺、高野山などへも訪れます。こうした修行研鑽を11年間続け、ついに、「お釈迦さまの最高の教えである『法華経』こそが、救いのよりどころとなる唯一の経典である」という確信を得ました。
清澄寺に戻った日蓮は、建長5年(1253)清澄山頂に登って「南無妙法蓮華経」の題
目を高唱し、立教を宣言します。その後、「法華経を広めようとする行者は難にあう」という法華経自体に書かれている予言通り、「松葉谷の法難」「小松原の法難」など数々の難に遭い、死の危険にさらされることになります。
「社会に天災や疫病などが続くのは邪法・悪法がはびこっているからだ。法華経信仰によって国土の安穏をはからなければならない」と説いた『立正安国論』を執権北条時頼に提出すると、その内容を幕府に危険視され伊豆に流罪(伊豆の法難)。さらに「龍の口の法難」では斬殺寸前となりますが稲妻によって奇跡的に逃れ、佐渡に流罪となります。文永11年(1274)ようやくゆるされた日蓮は身延山に入り、61歳で生涯を閉じるまで著作と後進の育成につとめたのです。 |
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◆ お仏壇の飾り方 |
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中央には十界曼荼羅か、釈迦牟尼仏、あるいは三宝尊のいずれかをご本尊としてまつります(三宝尊とは向かって右に多宝如来、中央に「南無妙法蓮華経」のお題目、左に釈迦牟尼仏を配したものです)。その右に鬼子母神、左に大黒天をまつります(法華宗では逆)。そしてそれらの前中央に日蓮聖人をまつります。 |
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5. 【浄土宗について】 |
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■ 宗祖 |
法然上人 |
■ ご本尊 |
阿弥陀如来 |
■ 教え |
阿弥陀如来が西方十万億土のかなたにつくられた、浄らかな極楽浄土に往生することを説く教えです。極楽浄土に往生し、そこで阿弥陀如来の説法を聞いて仏になるのです。極楽浄土に往生するためには阿弥陀如来の救いを信じて「南無阿弥陀仏」と唱えることが大切だと法然上人は教えています。
阿弥陀如来の救いを信じ、南無阿弥陀仏を唱えていると、心も体も清らかになり、人生を心豊かに生きぬき、死後浄土に生まれて仏さまになることができるのです。 浄土に生まれれば、いつまでも浄土に居られるのですが、仏さまとしてこの世に帰ってきて、まだ救われない人々を救うこともできるというのが、浄土宗の教えです。 |
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◆ 本 山 |
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総本山 |
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○ 華頂山知恩教院大谷寺 |
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(京都市東山区林下町) |
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七大本山 |
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○ 増上寺 |
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(東京都港区芝公園) |
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○ 知恩寺 |
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(京都市左京区田中門前町) |
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○ 清浄華院 |
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(京都市左京区黒谷町) |
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○ 金戒光明寺 |
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(京都市上京区寺町通北ノ辺町) |
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○ 善導寺 |
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(福岡県久留米市善導寺町飯田) |
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○ 光明寺 |
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(神奈川県鎌倉市材木座) |
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○ 善光寺大本願 |
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(長野県長野市元善町) |
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◆ 歴 史 |
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浄土宗の宗祖法然は、長承2年(1133)美作国に生まれました。幼くして父を失った法然は遺言にしたがって仏の道を志します。叔父の観覚のもとで仏教を学んだ後、比叡山東塔西谷功徳院の皇円のもとで出家します。しかし、当時の比叡山は僧侶達が権力闘争に明け暮れる状況にありました。そこで法然は、比叡山のなかでも真摯に仏道を求める僧侶が集う西塔の黒谷別所で慈眼房叡空に入門します。それから25年間、救いの道を求めて苦悶しながら、ひたすら仏道を追い求めます。
そしてついに43歳の時、善導大師の「一心に阿弥陀仏の名をたたえて念仏を唱えれば極楽往生できる」という教えに触れ、浄土宗を開宗します。この「念仏を唱えれば救われる」という教えはまたたく間に広まりました。しかし、既成宗派から「伝統的な仏教を否定するもの」として弾圧を受け、讃岐に流罪になります。後に許されて京都へ戻り、現在の知恩院の地で80歳の生涯を閉じます。法然の死後、弟子達によって浄土宗はさらに広まっていきました。 |
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◆ お仏壇の飾り方 |
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中央にご本尊の阿弥陀如来を、向かって右に観世音菩薩、左に勢至菩薩をまつります。さらに観音菩薩の隣に、唐の善導大師を、勢至菩薩の隣には宗祖円光大師法然をまつります。お仏壇の大きさなどによっては、観音・勢至の両菩薩は省略されます。また、仏壇か厨子の前に戸張を垂らすこともあります。 |
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6. 【浄土真宗本願寺派について】 |
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■ 宗祖 |
宗祖 見真大師親鸞聖人
慧燈大師蓮如上人(8代目) |
■ ご本尊 |
阿弥陀如来 |
■ 教え |
仏さまになるには、修行によって煩悩を断ち切り、善根を積むことが必要である、とされてきました。しかし、今の私達にとって、それを毎日続けてゆくのは非常に難しいことなのではないでしょうか。そこで、阿弥陀如来は私達のような者を救おうと誓い、浄土を建立したのです。この、阿弥陀如来の建立した浄土に生まれる道を説くのが浄土真宗の教えです。阿弥陀如来は私達のような者こそを、救いの対象にしているのだと説いてるのです。
また、浄土真宗では、「阿弥陀如来に帰依すると決めた時点で、誰でも仏になることが約束される」としています。ですから、阿弥陀如来に帰依した後の念仏は仏になるために唱えるのではなく、仏になれた感謝の表現として唱えるものなのです。自分の修行などによって極楽浄土へ往生しようとする「自力念仏」ではなく、阿弥陀如来を信じ感謝の心とともに唱える「他力念仏」が浄土真宗の念仏なのです。 |
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◆ 本 山 |
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総本山 |
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○ 龍谷山西本願寺院大谷寺 |
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(京都市下京区堀川通花屋町下ル) |
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◆ 歴 史 |
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承安3年(1173)、親鸞は京都に生まれ9歳で得度しました。その後20年間に亘り比叡山で修行をつづけますが、やがて比叡山の仏教に絶望し浄土宗の宗祖法然を訪ねます。そこで法然の専修念仏の教えに感銘し入門します。しかし、念仏禁止令が発布され、越後に流罪。流罪先で結婚した親鸞は非僧非俗(ひそうひぞく)の境地をひらき自らを「愚禿親鸞」(ぐとくしんらん)と名乗ります。流罪が許された後、妻子を伴って関東で布教を始めます。そして元仁元年(1224)浄土真宗の根本聖典になる『教行心証』(きょうぎょうしんしょう)を執筆、この年が立教開宗の年とされています。
晩年は家族とともに京都へ帰り、90歳で往生するまで、盛んに執筆活動を行い、同時に関東の弟子達へ手紙で指導をつづけました。
親鸞の死後、教団は次第に衰微していきますが、第八世蓮如によって再興をはたします。そして、巨大教団へと発展したため、他宗派や大名からの弾圧がはじまります。織田信長の本願寺攻略をはじめとして、時の権力者に翻弄され西本願寺と東本願寺にわかれますが、宗勢は衰えることなく、現在に至ります。 |
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◆ お仏壇の飾り方 |
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絵像の阿弥陀如来を中央に飾ることが多いようですが、最近では木像を飾ることもあるようです。そして向かって右に「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号を、左に「南無不可思議光如来」の九字名号を飾ります。また、右に親鸞聖人、左に蓮如上人の絵像を掛けることもあります。 |
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7. 【真宗大谷派について】 |
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■ 宗祖 |
見真大師親鸞聖人 |
■ ご本尊 |
阿弥陀如来 |
■ 教え |
仏さまになるには、修行によって煩悩を断ち切り、善根を積むことが必要である、とされてきました。しかし、今の私達にとって、それを毎日続けてゆくのは非常に難しいことなのではないでしょうか。 そこで、阿弥陀如来は私達のような者を救おうと誓い、浄土を建立したのです。この、阿弥陀如来の建立した浄土に生まれる道を説くのが真宗の教えです。阿弥陀如来は私達のような者こそを、救いの対象にしているのだと説いてるのです。
また、真宗では、「阿弥陀如来に帰依すると決めた時点で、誰でも仏になることが約束される」としています。ですから、阿弥陀如来に帰依した後の念仏は仏になるために唱えるのではなく、仏になれた感謝の表現として唱えるものなのです。自分の修行などによって極楽浄土へ往生しようとする「自力念仏」ではなく、阿弥陀如来を信じ感謝の心とともに唱える「他力念仏」が真宗の念仏なのです。 |
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◆ 本 山 |
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総本山 |
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○ 真宗本廟 (東本願寺) |
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(京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754) |
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◆ 歴 史 |
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承安3年(1173)、親鸞は京都に生まれ9歳で得度しました。その後20年間に亘り比叡山で修行をつづけますが、やがて比叡山の仏教に絶望し法然を訪ねます。そこで法然の専修念仏の教えに感銘し入門します。 しかし、念仏禁止令が発布され、越後に流罪。流罪先で結婚した親鸞は非僧非俗(ひそうひぞく)の境地をひらき自らを「愚禿親鸞」(ぐとくしんらん)と名乗ります。流罪が許された後、妻子を伴って関東で布教を始めます。そして元仁元年(1224)浄土真宗の根本聖典になる『教行心証』(きょうぎょうしんしょう)を執筆、この年が立教開宗の年とされています。
晩年は家族とともに京都へ帰り、90歳で往生するまで、盛んに執筆活動を行い、同時に関東の弟子達へ手紙で指導をつづけました。
親鸞の死後、教団は次第に衰微していきますが、第八世蓮如によって再興をはたします。そして、巨大教団へと発展したため、他宗派や大名からの弾圧がはじまります。織田信長の本願寺攻略をはじめとして、時の権力者に翻弄され西本願寺と東本願寺にわかれますが、宗勢は衰えることなく、現在に至ります。 |
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◆ お仏壇の飾り方 |
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阿弥陀如来をご本尊として中央に飾ることが多いようです。脇掛けは向かって右に「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号、左に「南無不可思議光如来」の九字名号を飾ります。あるいは右に親鸞聖人、左に蓮如上人のご影像を掛けることもあります。脇掛けが十字名号・九字名号の場合、その前に仏飯器はそなえません。 |
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