HOME > 葬儀の基礎知識(目次) > Vol.14 暮らしの中の仏教用語
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■ 『四 苦』
四苦とは、仏教でいう人間として生まれた以上、さけることの出来ないこの世の苦しみを表しています。四苦とはただ生きているだけで味わう基本的な苦しみのことで、生老病死の4つをいいます。

この世に生まれること、老いること、病気になること、死ぬことが、人間に課せられた必然的な苦しみというわけです。
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■ 『八 苦』
四苦に、さらに精神的な苦しみを加えてものが八苦です。その4つとは愛別離苦(あいべつりく)愛する人と別れる苦しみ、怨憎会苦(おんぞうえく)いやなものや嫌いな人とつき合わなければならない苦しみ、求不得苦(ぐふとっく)欲しいものが手に入らない苦しみ、五蘊盛苦(ごうんじょうく)心身の欲望をコントロ−ルできないことから生じる苦しみです。

私たちの悩みや、苦しみはいずれもこの8つのいずれかにあてはまります。人は壁にぶちあたると、わけもわからずもがき苦しみますが、まずはその内容を見極めることこそが苦しみから脱する1歩となるのです。
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■ 『ぜんざい』
日本では、いつのまにか甘味屋さんでおなじみのメニューになってしまいましたが、実はこのぜんざい、教典の中ではよく使われていた言葉でした。漢字で書けば(善哉)です。

その字の通り、訓で(よいかな)と読み、よいと思ったときにほめる言葉で、現代流に言えば(その通り!)(けっこう、けっこう)といったニュアンスです。

特にお釈迦様は、弟子の答えに満足したときに、(善哉、善哉)とほめるのが常だったそうです。
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■ 『おシャカになる』
使い物にならなくなった商品や壊れてしまった道具などをさしておシャカになるということがあります。このおシャカは言うまでもなくお釈迦様のおシャカです。

では、なぜだめになったものをお釈迦様になぞられて表現するようになったのでしょうか?一説にはお釈迦様の誕生日を祝う花祭りに起源を持つというのがあります。花祭りにはお釈迦様の像に頭から甘茶をかける風習があります。そこから雨などで全身ずぶぬれになる事を、おシャカさんになると言うようになり、転じて濡れてだめになった商品などもおシャカになると呼ぶようになったというものです。

まだまだ、沢山の説がありますが、実際は、お釈迦様が仏を意味し、仏が死を連想させることから、駄目になったものをおシャカと呼ぶようになったのが本当のところかもしれません。
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■ 『玄 関』
家の出入り口をさす玄関という言葉。今では誰もが当たり前に使い、それ以外の意味はちょっと想像できないのが普通だと思います。玄関の(玄)は、玄妙あるいは幽玄のこと。奥深く微妙で容易にははかり知ることのできない道理。つまり仏教そのものを表す言葉でした。(関)はいわゆる関門で、重要な入口のことを意味します。そこから、仏教の道に入ることを玄関と称するようになり、やがて禅寺の門や入口も玄関と呼ぶようになりました。したがって、禅宗における玄関には、単に出入り口という意味だけではなく、悟りを開くために通過しなくてはならない関所という意味も含まれています。
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■ 『殺 生』 〜その1〜
現在では、軽いニュアンスで用いられることが多いですが、本来は人間として行ってはならない、罪深い行為の筆頭にあげられていた言葉でした。文字通り生き物を殺すことです。

仏教では輪廻転生という考え方があります。生きとし生けるものは、死んだ後も再び生まれ変わるという思想です。次に人間に生まれてくる保証もなく、もしかしたら動物や虫に生まれ変わるかもしれない。そこで、むやみに生き物を殺すことは、明日は我が身と考えられたのです。
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■ 『殺 生』 〜その2〜
仏教では人間の正しいあり方にそむく行為を 悪として十悪を定めています。
◆体で行う(身業の三悪)
○殺生 (生き物を殺すこと)
○邪淫 (妻や夫以外と交わること)
○偸盗 (他人の物を盗むこと)
◆口で言う(口業の四悪)
○妄語 (嘘をつく)
○悪口 (他人の悪口を言う)
○両舌 (いわゆる二枚舌)
○綺語 (巧みに飾り立てて真実を隠すこと)
◆心で思う(意業の三悪)
○貪欲 (欲が深い)
○瞋恚 (自分に逆らうものを怒り恨むこと)
○邪見 (よこしまな見方)
で合わせて十悪です。
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■ 『旦 那』
妻が夫を呼ぶときの代名詞として、あるいは商人などが得意客を呼ぶときの呼称としてよく使われています。本来はサンスクリット語のダーナを音訳したもので、与えること与えるものを意味し、布施と訳すのが一般的でした。

布施とは経済的な面からお寺を支えるという目的以外に、お金や富への執着を断ち切り、もっと大切な仏の教えを知るという目的がありました。

旦那はいつのまにか布施そのものの意味でなく布施をする人になりました。
さらに、江戸時代にお布施をする人に限らず、お金を出してくれる人全般をさすようになりました。やがて、料亭や商店の使用人が主人を呼ぶようになり、妻が夫を呼ぶときも使われるようになりました。
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■ 『シャリ』
シャリは白米を指す言葉、そう思い込んでいませんか。
仏舎利に起源をもつ言葉です。仏舎利とはお釈迦様の遺骨をのことを意味する言葉です。

では、なぜ白いご飯を意味するようになったかというと、二つの説があり、一つはサンスクリット語のシャ−リがお米を意味することから、お釈迦様の遺骨を意味するシャリ−ラと混同され舎利の字が当てられるようになったもの。

もう一つはお釈迦様の遺骨が真っ白で白米に似ていたことから舎利に例えられたという説があります。
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■ 『ほらを吹く』
うそをつく、大言壮語するという意味でよく使われます。ほらとは大きな巻貝のことで、出陣や集会のときに法螺貝のひと吹きで大勢の人を思い通りに動かしました。

そうした法螺貝の持つ大きな力を、お釈迦様の説法に例えるようになったのがほらを吹くの始まりです。

法螺とは大きな説法を説いて人々の心を動かす、という意味で使われていたのですが、本来ほらを吹くのは釈迦一人だったはずです。やがてお釈迦様を気取り、いかにもわかったような口ぶりで説法する僧が現れました。そこから大言壮語するという意味が生まれました。
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■ 『上品下品』
上品な人と言えば、態度や物腰の洗練された人を指すのが一般的です。
反対に、下品な人と言うと、粗野で卑しい振る舞いをする人を思い浮かべるでしょう。

どちらも浄土教で使われていた言葉で、それぞれ(じょうぼん)(げぼん)と読み、仏教を理解し実践する素質や能力に応じて、人を9つのランクに区分しました。この上品下品がいつのまにか外から見た印象や態度を表す言葉として一般でも使われるようになりました。

しかし、浄土教ではたとえ自分がどんなランクにいようとも、念仏をひたすら唱えれば、阿弥陀仏の慈悲によって極楽浄土に往生できると説きました。
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■ 『通 達』
一般に通達といえば、役所や会社などで上から一方的に回ってくる命令や指示、告知などを言います。この言葉も、サンスクリット語の(プラティヴェ-ダ)を漢語に訳したのと言われています。

(プラティヴェ-ダ)の原義は的を射ることです。そこからするどい洞察あるいはその道に深く達することを表すようになり、転じて物事をよく理解するの意味で使われるようになりました。通は物事に通じるの意味で、達は到達するを意味することからこの字が当てはめられたものと思われます。

インド仏教のある派では悟りの境地に完全に達していないものの、仏教の教えを理解している状態を表していたのですが、日本ではいつの間にか教えを理解しているではなく、広く行き渡るの意味で使われるようになりました。
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■ 『娑 婆』
現代では、牢獄など束縛された世界から外の自由な世界を指すぐらいにしか使われなくなったのですが、仏教では、お釈迦様が仏教の教えを広めなくてはならない世界のことを指しました。

つまり、お釈迦様の住む極楽浄土から見たこの世のことを娑婆と言ったわけです。全ての悩みや苦しみから解放された仏の世界である(浄土)に対し、この世の中は様々な苦しみや悲しみに耐えなければならない(忍土)であるというわけです。
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■ 『茗 荷』
蕎麦や、汁物の薬味として使われる茗荷、食べ過ぎると物忘れがひどくなると言われたことはありませんか?これも仏教説話からきています。お釈迦様の弟子に周利槃特(しゅりはんどく)という修行僧がいました。修行熱心でまじめな人物でしたが、物忘れがひどく自分の名前を忘れることさえありました。

お釈迦様は周利槃特と書いたお札を与えこれを首にかけ、忘れたら読みなさいと助言したのですが、しまいには名札を首に掛けていることさえ忘れてしまったそうです。

周利槃特の死後、そのお墓から見たこともない植物が生えてきました。人々は自分の名前を首に下げて担っ荷っていた周利槃特を思いだし茗荷と名付けました。そして、いつしかこれを食べると物忘れが激しくなると言い伝えられるようになったのです。
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■ 『三日坊主』
飽きぽっくて、何を始めても長続きしない、そんな人のことを指して三日坊主と言います。現代よりも人々に宗教心が根付いており、お寺と距離がもっと近かった時代、現世を捨てて仏門に入ることはよくあることでした。

しかし、一時的な感情の高まりで仏門に入ったものの、気持ちが落ち着いてくると、やはり喜怒哀楽にまみれた娑婆の生活が恋しくなり、すぐに還俗する人が多いとか。それは今も昔も同じだったようで、一大決心で始めても、すぐに続かなくなってしまう人のことを三日坊主と呼ぶようになったわけです。
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■ 『嘘も方便』
嘘をつくのは、決してほめられたことではありません。嘘つきは泥棒の始まりのように、嘘を戒めることわざもあります。しかし、一方では時と場合によっては嘘も許されると言う意味でよく使われるのがこのことわざです。方便も仏教から来た言葉です。

目的に達するまでの道筋といった意味があります。仏教では人々の教えを導くための手段や方法のことを方便というようになりました。

方便の一つの事例として、ある家が火事になったとき、家の中では子どもたちが夢中になって遊んでいた。火事だから早く外にでなさいと叫んだが、子どもたちはわからない。そこで父親が外に牛を引く面白い車があるからでておいでというと、子どもたちは喜んで外にでてきて無事であった。

誰かを助けるためであれば嘘も必要という仏教の教えです。
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■ 『大げさ』
実際よりオ−バ−な言動や誇張された態度に接したときに私たちはそれを大げさと評します。漢字で書けば大袈裟です。袈裟とはお坊さんが左肩から右の脇下にかけて、法衣を装うようにして身にまとっている長方形の布のことです。

仏教が成立したインドでは、ゴミ捨て場に捨てられていた布を集め、継ぎ合わせて身にまといました。ところが、仏教が中国、日本へと伝わるにつれ、仏教を取り巻く環境も変わりました。

次第に装飾色が強くなり、豪華できらびやかなものが作られるようになりました。その派手な姿を見て、なんて仰々しい袈裟なんだろうと人が思ったことから大げさという言葉が生まれたのです。
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■ 『利 益』
現代では、儲けや得になることを指すのが一般的です。
これも仏教から来た言葉で、初詣に行ったときに願う御利益(ごりやく)がその語源です。仏や菩薩の力によって授けられる富や、幸福のことを指します。

利益とは本来、修業の結果与えられる恩恵のことをいったわけです。自分のためになるものが功徳、他人に与えられるものを利益と呼んで区別していました。
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■ 『所 得』
現代では働いて得た賃金や商売での利益など物質的に得たもののことを意味するのが不通です。

しかし本来は、体験したこと、手に入れたこと全般を表し、とくに精神的、知覚的に得たもののことをいいました。禅宗ではそのものずばり悟りを示す場合もあります。現在では精神的な意味が薄れ物質的な意味に変化してしまったのです。
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■ 『盆踊り』
お盆は、祖先の霊を我が家に迎えて供養するための行事です。そこで戻ってきた霊を歓迎し、慰め、再びあの世に送り帰すために始まったのが盆踊りです。

その起源をさかのぼると、お釈迦様の高弟・目蓮(もくれん)が地獄の餓鬼道落ちて苦しんでいた母親を救うために盛大な追善供養を催し、その功徳によって救われたときに感極まって踊ったことに由来すると言われています。
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■ 『愛 嬌』
愛嬌がある人と言えば、にこやかで親しみやすい人のことです。
愛嬌者といえば人なつっこくユ−モラスな人柄のことを指します。こうした使い方からもわかるように、現代では好印象を与える外見や性格のことを愛嬌といいます。これも仏教から来た言葉です。

本来は愛敬と書き(あいぎょう)が正式でした。愛敬はその字が表すように、思わず敬愛の気持ちを抱くような、仏や菩薩の慈愛に満ちた表情のことを指す愛形相がル−ツです。そうしたお釈迦様の容姿から、穏やかで柔和な表情や性質のことをこう呼ぶようになったわけです。
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■ 『長広舌』
自説を長々としゃべりたてる饒舌さを表す言葉に長広舌(ちょうこうぜつ)があります。長広舌は、お釈迦様の体の特徴である三十二相の一つ広長舌が、いつのまにか語源が入れ替わって長広舌になったと言われています。

お釈迦様は普通の肉体を持っていたはずですが、入滅後、弟子たちによって偶像化され、その姿・形には32の優れた特徴があったと信じられるようになったのです。お釈迦様の説く巧みな説法が、広く世界に響き渡ったことを比喩的に表しているわけです。

このように本来は弁舌が巧みな事を言う長広舌ですが、時代を経るにしたがい、単に長々としゃべることを指すようになってしまいました。
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■ 『舌先三寸』
内実の伴わない口先だけの言葉を指す舌先三寸(したさきさんずん)というのがあります。

お釈迦様の長大な舌に比べ、大した長さではないという意味から、心のこもっていない上辺だけの言葉や話しぶりを指すようになりました。三寸と言えば約9cm。普通の人の舌であれば、十分長いと言えそうですが。
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■ 『以心伝心』
彼とは以心伝心の仲だからと言えば、口に出さなくても何でもわかりあえる間柄のことを指します。この言葉も、禅宗などでよく使われる仏教語です。

禅宗の始祖・達磨大師がわが法、以心伝心、不立文字をもってす。と言ったことに由来しています。つまり、仏教の真理は、書物や言葉で伝えきれるものではなく、心と心によって初めて伝達することができると言うことを表しています。

しかし、弟子も師と同じくらいの高いレベルに達していなければ、以心伝心は成り立ちません。この言葉は、真理を得るには、伝えられる方もそれに値する高みにいなければならないということも意味しているのです。
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■ 『言語道断』
言語道断は、口では言い尽くせない深い仏陀の知恵のことを表しています。言語も道も言葉のことです。

つまり、言葉で表現する道が断たれるほど、仏教の真理は奥深いと言う意味なのです。しかし、現代ではもっぱら言葉で言えないほど、けしからんと言う意味でしか使われなくなってしまいました。これこそ言語道断な話と言えるかもしれません。
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■ 『一大事』
現代では、のっぴきならぬ事件や事態のことを一大事といいます。
ところが、この言葉が生まれた当初は、少しばかり違った意味で使われていました。

そもそも一大事は法華経という仏典の中で、「諸仏世尊は、唯、一大事の因縁をもっての故に、世に出現したまふ」とかかれていたことが起源です。一大事の因縁とは、一番重要な理由(因縁)のことで、それは悟りを得た偉大な人の真理を世の中の人に教え、理解させ、人々を真理の道に導くことでした。これがお釈迦様が生まれた一大事でありただ一つの偉大な目的と事業でした。

つまり最初は、お釈迦様にとって最も重要な目的である、この世に現れて人々を救済することが一大事だったわけです。お釈迦様にとっての一大事がやがて私たちの一大事としても使われるようになったのです。
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■ 『頭陀袋(ずたぶくろ)』 
頭陀袋とは、一般には、何でも入るような大きめのだぶだぶの袋のことを指しますが、狭義には、お坊さんが首からぶら下げる袋のことをいいます。頭陀はサンスクリット語で捨て去るという意味があります。

仏教では、煩悩をはじめあらゆる欲望を払いのけることを修行の第一としていますが、中でも衣食住にかかわる一切の欲を捨てる修行のことを頭陀あるいは頭陀行とよびました。

これは行く先々で人々から施しを受けながら野宿などをして仏道を目指すもので、このときにお経や日用品などを入れた袋が頭陀袋でした。頭陀袋は葬儀のときに亡くなった人に着せる死装束の一つとしても使われます。

これは、現世のものを一切捨ててあの世へ旅立つことを頭陀行になぞらえているからだと言われています。
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■ 『乞食』
修行僧が人家の門前に立ち、食を求めることを乞食(こつじき)あるいは托鉢(たくはつ)と言います。

本来、僧侶はあらゆる生産活動を禁じられ、もっぱら他人からの施しによって生活するものとされてきました。乞食は出家した僧侶たちの生活手段であり、同時に仏教を広めるという大切な修行の一つだったわけです。
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■ 『引導を渡す』
引導を渡すとは、現代では最後通告を突きつける。覚悟を決めさせる。という意味で使われます。つまり、何かをあきらめさせようとするとき、その最後の宣告をして未練を断ち切らせることを言うわけです。

葬儀のときには多くの宗派で僧侶が死者に引導を渡します。死んだ直後は自分がまだ生きているのか死んでいるのか、どこへ行ったらいいのか迷っている状態です。そこで、僧侶がお経を唱えてこれからは煩うことのない涅槃の世界へ行くのだから安心して成仏しなさいと教え諭し、あの世へと導くのです。

元々は法華経という経典に出てくる言葉で、迷える人々を教え導き、仏教の道に引き入れるという意味がありました。そこから、葬儀のときに僧侶がお経を唱え、成仏させることを意味するようになりました。
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■ 『袖すりあうも他生の縁』
すれ違いざまに袖と袖がふれあうような、ほんのささいな出会いでも、それは決して偶然の出来事なのではなく前世での縁があってのことということわざです。

このことわざは、人間の生はこの世限りではない。生まれる前には前世がり、死んでも来世で再び生まれ変わるという仏教の説く輪廻転生の考え方から来ています。たとえ袖がふれあっただけの関係だとしても、前世、来世といった他生での縁があったからこそ生じたこと。

だから人との関係は決しておろそかにしてはならない、という戒めがこめられているのです。
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■分別(ふんべつ)
男の四十は分別盛りなどという言葉があるように、分別とは物事の良し悪しを判断する、道理をわきまえるという意味に使われます。

分別があるといわれるのは思慮があるという意味でほめ言葉です。ところが、仏教では、分別とは徹底的に捨て去るべきもの、排除すべきものと教わります。

サンスクリット語では、つくり上げる、築き上げると言った言葉で、どちらかというと何もないものを勝手にこしらえるというニュアンスを含んでいます。そこから、世の中で起こるさまざまな出来事を心が勝手に推し量り、善悪や苦楽などを判断するという意味で用いられたのが分別です。

つまり仏教では煩悩にとらわれた人間が作り出す妄想が分別なのです。ですから、分別を排除し、無分別の状態になることを良しとします。
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■根 性
根とはサンスクリット語のインドリアの漢訳語で、その植物の根が、その植物を成長させる大きな力を秘めているように、人間がもともと持っている心や体の能力、あるいはそうした能力を持つ感覚器官のことである眼根などです。

根性はそうした意味をもつ根に、生まれ持った性質のことを表す性が合わさってできた言葉です。

では、人間が本来持っている能力や性質とは何でしょうか?それは仏性、つまり悟りに達した人になれる素質のことです。

仏教では、仏の教えを受け入れる者としての宗教的な素質や能力を指しました。時がたつにつれ、単に困難にくじけない強い性質や意志を表すようになったのです。
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■沢庵漬け
新しい年を目前に控えた師走に、曹洞宗の大本山永平寺では沢庵作務が行われます。永平寺に居住する約300人の僧侶、雲水、来客者など献立に使われる1年分の沢庵が、雲水の手によって漬け込まれるのです。

沢庵漬けの名は、江戸時代初期の高僧、沢庵和尚に由来します。沢庵は14歳で禅宗に帰依、37歳で臨済宗の大寺院、大徳寺の住職になりますが、徳川幕府に背いた罪で出羽の国に流されます。しかし、その高潔な人柄から地元領主の厚遇を得ます。後には三代将軍家光から帰依されるほどの信頼を得ました。

沢庵漬けは、元々は沢庵和尚の郷里で作られていた漬物で、当時は貯え漬けと呼ばれていたそうです。それを家光が沢庵の寺を訪れたときに供したところ、家光はたいそう気に入り沢庵漬けと命名したと伝えられています。
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■人 間
私たち自身を指す人間と言う言葉ももとをただせば仏教語です。じんかんではなくにんげんという独特の読み方をすることからも想像ができるかと思います。

サンスクリット語で人が住んでいる場所のことを意味します。やがて人自身のこともそう呼ぶようになりました。これは、お釈迦様の住む天上界から見てのお話です。この背景には、輪廻転生という仏教の考え方があります。

人間をはじめ、生きとし生けるものは死後、6つの世界に生まれ変わるとされています。神々の世界である天上界、人間の住む人間界、争いの絶えない阿修羅道、獣の姿で苦しむ畜生道、飢えに苦しむ餓鬼道、絶え間ない責め苦にさいなまれる地獄道です。私たちは生前の行いによって、そのどこかに転生するわけなのです。
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■兎に角
とにかくを漢字で書けばこんな字になります。いずれにしても、それはさておき、あれやこれやなどの意味で使われます。この言葉の語源は、仏典のなかに出てくる、兎角亀毛だというのが定説です。

いうまでもなく、角のあるうさぎや、毛の生えた亀は実存しません。実際にはあり得ないのに耳が角に見えたり、甲羅の苔が毛に見えたりしてあると錯覚してしまうことが兎角亀毛であり、あり得ないものの例として用いられる言葉でした。その根底にあるのは、この世に存在するものは幻想であるという仏教の考え方です。
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■縁 起
縁起がいい、悪い、縁起を担ぐなど、私たちが普段でもよく口にする縁起という言葉があります。もっぱら、吉凶の前兆を表す言葉として、茶柱が立つと縁起がいいなどと使います。

仏教語としての縁起は仏教の中心思想の一つである因縁正起を略した言葉です。全ての物事や現象は無数の原因、由来、関係などから生じ、すべてが相互に関連しあっていることを意味します。それは、私たちが生きている間だけの話ではありません。

現世で行った行為が業として未来に成果を残し、再び私たちが来世に生まれてくる原因を作ります。つまり人間が輪廻転生を繰り返すのは、この縁起という法則があるからだと考えられているのです。
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■会うは別れの始め
人と人が出会えば、必ず別れがあります。どんなに愛しあった恋人や夫婦でも、いつかは分かれる運命にあります。時が来れば、死という運命によって離れ離れになるのです。

これは、仏教の経典の一つである涅槃経に出てくる生者必滅、会者定離という対句後半部分をわかりやすく解説したものだといわれています。生まれた者は必ず死に、出会った者は必ず別れるというのが、この対句の意味です。

別れが避けられないのなら、出会ったことに感謝し、一緒にいられる今という一瞬一瞬を悔いのないように生きていくことが大切だとということ教えています。
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■甘露(かんろ)
甘露煮といえば、小魚や黒豆などを甘く煮付けた料理の事を指します。また、カンロ飴というのも有名です。

甘露とは、甘いものを表すほかに、おいしいと表現する場合の感嘆詞代わりに使われたりしています。この言葉はサンスクリット語のアムリタにル−ツがあります。

アムリタとはインドの神々が飲んでいた不老不死の妙薬のことです。ヒンズ−教の神話で、この世を作るときに、大海を撹拌して得た霊液がアムリタで、その味は甘くて美味であり、香りも高く、飲めばさまざまな苦悩がたちまちに消えるといわれています。

お釈迦様は耳あるものに甘露の道は開かれたりという言葉を残しています。死なないということは、仏教では解脱して輪廻のくびきから自由になったことを意味します。
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■栴檀(せんだん)は双葉より芳し
栴檀とは白檀のことで、お線香に使われる香木として最もポピュラ−なものです。温暖地方に自生する落葉樹で、香りのすばらしさから香料の原料として人気があります。

この栴檀という木は、双葉のとき、つまり新芽が出る最初のころからすでにいい香りを持っています。そこから、将来大成する人は、普通の人とは違い、幼少のころからその優れた素質がうかがえるのだという意味があります。

インドではお釈迦様の時代からとくに珍重されてきたのが栴檀で、香料の他にも仏像や、数珠などに加工され、お釈迦様が亡くなった時は遺体を焼くのに栴檀の木が使われていたという伝説があります。
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■女三界(さんがい)に家なし
女性はこの世のどこにも安住できる場所がないという意味の男性中心の封建的な時代のことわざです。

三界とは、仏教でいう輪廻転生が繰り返される迷いの世界のこと。下から順に欲界、色界、無色界という3つの領域から成り立っています。

欲界は、食欲や、性欲など本能としての欲望を有する世界で、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つに分かれています。これは六道とも呼ばれています。

色界は、色、つまり肉体や物質は存在するものの欲望がすっかり消えうせた世界のことです。

無色界では、肉体や物質は存在せず、純粋な意識だけの世界となります。

以上の三つを合わせたのが三界です。人間が行き着くことのできる全世界のことを三界と呼んだわけです。
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